中村学園三陽高等学校 中村学園三陽中学校

  • ホーム
  • 学校紹介
  • 三陽の学び
  • 学校生活
  • 生徒会・部活動
  • 入試情報
  • 在校生・保護者の方へ
  • 卒業生の方へ

新着情報

  • 資料請求
  • 学校説明会
  • Webパンフレット

【三陽の今昔、そして三陽魂】~1月20日三陽スピリッツより

2018.01.20
[学校生活]
皆さん、おはようございます。
『人間は頭の良し悪しや学力の優劣よりも人物が出来ていることが基本である。』
人間学講話、三陽スピリッツの時間です。本日は国語科の落合が担当します。
テーマは『三陽の今昔、そして三陽魂』です。しばらく耳を傾けてください。



まずは、三陽中高の今昔です。少しだけ、三陽の歩んできた32年間をたどってみようと思います。
三陽高校が産声を挙げたのは昭和61年です。それからまもなく、時代は平成の時代を迎えました。つまり三陽の歴史は、ほぼ平成の時代と重なることになります。
それから早32年の月日が過ぎようとしています。
その間、この三陽高校・中学校にも様々な移り変わりがありました。まずは、そのいくつかを紹介します。

三陽の象徴といってもよい「三陽坂」、この坂にも歴史があります。創立当初の「三陽坂」は現在の位置とは異なる場所にありました。といっても正門の下、つまりテニスコートから下ということになりますが、皆さん、とにかく「三陽坂」を下るイメージを思い浮かべてください。
テニスコートを右に見ながら、坂道は、ほぼそのまま、まっすぐ下っていました。要するに現在の広石グラウンドの一塁線の方向に一直線に下っていたのです。ではグラウンドは、というと、当時はその右側、つまり現在の「福寿園」側にありました。その頃、野球部は高校の軟式野球部として活動していましたが、草っぱら同様の空き地で細々と練習していました。ですから大きくS字を描く現在の「三陽坂」とは全く違った坂道だったわけです。



先ほどのテニスコートですが、これも現在は立派な全天候型のコートですが、あの場所は実は駐輪場でした。ですから、自転車通学者は、現在よりもはるかに急な勾配の「三陽坂」を、えっちらおっちら三陽坂のほぼ中間地点まで、押して登っていたわけです。
その後「福寿園」の建設にともない。区画整理が進む中で、「三陽坂」の姿も大変身した、というわけです。そして、駐輪場は現在の地点に移設されたのです。
昔と比べて三陽の中で大きく変化したもの、姿を変えたものをもう少し紹介します。
昔は校舎を取り囲むように、山の斜面に「いのししコース」と呼ばれる周回道路があり、当時の三陽生のランニングコースとして利用され、親しまれていました。しかし、周辺の山を切り崩しての土地開発によって現在では立入禁止区域となりました。中学棟の裏山に残っているフェンスに当時の面影を忍ぶことができます。



制服についても触れておきます。初代の制服は上下紺色の学ランでした。後から創立された中学は、上着は高校と同じ、スラックスのみグレーというスタイルでした。今では信じられないかもしれませんが、その頃は紺色の学生帽を被っていました。シューズは白のスニーカーでした。第一期生の菊池先生の制服姿は中々凛々(りり)しいものでした。ただし、肩から胸にかけては、並みの高校生とは異なり、ムキムキパンパン状態でした。
2代目は時代の趨勢(すうせい)もありブレザーを採用しました。上が、ほぼブラックに近い上着で、下は高校生がチェックのエンジ色、中学生はやや黄緑がかったグレーでした。英語科の山内先生や理科の有光先生、地歴公民科の池田先生は確かこの時代ですね。ちなみに、山内先生は身の丈特大サイズだったと記憶しています。
そして3代目、これが現在の、紺色のブレザースタイルの制服です。ただしネクタも含めて、数回のマイナーチェンジを経て現在に至っています。この3代目世代の君たちの中から、将来本校の教師として戻ってきてくれる三陽生を心待ちにしています。
まだまだご紹介したいことはたくさんありますが、あとは簡単に項目だけ並べてみます。
路線バスの便数の大幅増便、芝生のグラウンド、これによって三陽名物、砂ぼこりも姿を消しました。三陽食堂ご自慢の唐揚げ弁当も実は最初からあったメニューではありません。それに、最初はラーメンの替え玉があったりもしましたが、食欲旺盛な生徒が次から次へと注文する始末で、止む無く廃止となりました。三陽坂で三陽生を見守り続ける桜の木、その中でも正門から校舎までを彩ってくれる八重桜は理事長先生のご配慮で、後から植樹されたものです。今は無くてはならない教室のエアコンも実は創立後数年たってから設置されました。それまでは生徒が利用できるエアコン完備の環境は図書館と視聴覚室くらいでした。ですから、皆さんは恵まれているんです。中学棟は高校創立に遅れること2年、校舎増設の形で完成しました。
それ以外にも挙げれば数限りないのですが、一方、開校当初から一貫して変わらないものもあります。
それは三陽健児だけが抱くことのできる、三陽健児の精神です。三陽魂といってもいいでしょう。
この三陽につながる、多くの、そして全ての人々が目にしてきた風景のあれこれ、今や、日本を代表する発展都市福岡の街並み、時に優しく美しく、時に荒々しく波寄せる博多湾を、日々眼下に見下ろしながら育まれた気宇(きう)壮大な広く、たくましい心は、この三陽でしか育たないはずです。私はこの三陽以上に恵まれた環境の学校を知りません。聴いたことがありません。見たこともありません。春の鶯のホーホケキョの声を、極々当たり前のように聴きながら過ごせる学校なんて、そんなにはないはずです。この素晴らしい環境で育ちゆく三陽生の三陽魂が他校に劣ることはあり得ない。私はそう信じています。
「若草燃ゆる丘の上」の調べに始まり、「おお三陽久遠の光」に結ばれる、わが三陽校歌、「玄界灘に轟(とどろ)き渡り、湧き立つ澎湃(ほうはい)の潮に心洗われながら」と熱く励ましてくれる
応援歌、そこに込められた、三陽の精神・心意気を、ぜひとも胸の奥に刻んで欲しいと思います。
そのことは、生まれ故郷の今宿の地で赴任し、以来31年、多くの三陽生と触れ合ってきた私として何よりも君たちに伝えたいメッセージです。
まもなく時代は平成から次の新しい時代に移ります。昭和に生まれ、平成の時代を駆け抜けてきた三陽も、また新たな一歩、大きな一歩を踏み出さねばなりません。
その時代の節目を、三陽生として迎えんとする君たちには、それ相応の覚悟と努力を期待しています。頑張れ、三陽、頑張れ、三陽健児!!
最後に卒業を間近に控える高校3年生諸君にひと言。明日1月21日は昨年病に倒れ亡くなった廣瀬浩人先生のご命日です。廣瀬先生は私と同じ年でもあり、三陽に赴任したのも同じ年でした。その廣瀬先生の奥様からお聞きした話です。先生は生前、君たち30期生だけは教師生活の区切りとして卒業させたかった、とおっしゃっていたそうです。ですから3月1日の卒業式をぜひ素晴らしい式典にしてください。そのためには残された40日間の三陽での生活を君たち自身、充実したものにすることです。そのことが天国の廣瀬先生への最良のご供養ではないでしょうか。先生はきっと天国から君たちの成長した姿を見守ってくれるでしょう。
本日の三陽スピリッツは国語科の落合でした。来週は、三陽の西郷隆盛、地歴公民科の豊田先生です。
ご清聴有難うございました。
一覧へ戻る
TOPへ